家族と私と本と。

日常のつれづれと読書の記録

人は見た目だけではないかもしれない

夫が急遽有休を取ったので、娘を幼稚園へ送ってから百貨店へ。
数年ぶりにスーツを新調しました。
夫が美人の店員さんと二人で「スーツはシルエットが命だ」というので、ちょっとイラッ。
服に構わない夫に言われたからか、美女と一緒になって言うからか。
そんなこと私も知ってます!と思いながら流し、ワイシャツとTシャツとパンツまで勧めて買わせました。
総額を見て焦る夫を尻目に、さらにネクタイを物色する私。
給付金ひとり分は、大方飛んでしまったな。。。
まあ今年は旅行も行けないし他に出費の予定もないしいいでしょう。
その後子どもの来年用よそゆき夏服をセールで購入。
正価ではとても手が出ないので買えてよかったです。
この子ども服ブランドは7月末には60%OFFとかやるのですが、そこまで待ってるとバリエーションもサイズもなくなってしまうので、本当に欲しい服は3割引の今のタイミングで買うのがベスト。
ところで、「よそゆきの服」という概念が好きです。
子どものころから「一張羅を着て家族でお出かけ」の特別感、非日常感が大好きでした。
大人になってからも礼服とパーティードレスのほかに、観劇やお高めのレストラン、百貨店で買い物など「ちょっとしたお出かけ用の1セット」は必ず季節ごとに家族分準備しています。
同様に「2番目にいい服」も用意。
肌着も服のラインがきれいに見えるものをとり置いてあります。
こういうのは流行りのミニマリストや“シンプルな暮らし”とは真逆の概念だけど、行く場所やそこで働く人たちに敬意を払っておしゃれをする、というのは礼儀やマナーにつながることでもあり、それを省いて自分だけの快適さや合理性のみを追求するのは疑問です。
たまに「アップルの創業者もTシャツとデニムしか持ってないんだから」とか、「ローリングストーンズも穴あきジーンズ履いてる」とか、要は格好より中身が問題なんだと言う人がいるけれど、それは“アップルの創業者”“ローリングストーンズ”の肩書を“着て”歩いてるから認められるのであって、普通の人がぼろを着てれば、中身はともかくただの身なりに構わない人、だということに何で気づかないんだろうと思います。
この人ぼろ着てるけど、中身はすごいかもなんて、誰も考えてくれない。
初対面の判断材料は見た目と話し方くらいしかないから。

と、ここまで書いて下書きして夫とオートバックスへ行ったら、耳がピアスだらけで日焼けして、色つき眼鏡をかけたどう見てもヤンキー風のお兄さんが、
「ちょっと手が空いてたら教えていただきたいんですけど、○○はどこにありますか?」
と、ものすごい腰低く丁寧に店員さんに尋ねていて、
その横で爽やかな都会風カップルがキャッキャ言いながら車のクラクションをずーーーっとビービー鳴らし続けていてうるさかったり。

とりあえず“いちばんのよそゆき”と“2番目にいい服”が要るという主張と、夫が例え店員さんであろうと、よその女と仲良く話しているのは何となくムカつくという、自分の狭量さを再認識したお話しでした。